「納得できる正しい日本語」なんてない!?
少し前のことですが、私は研究者へのインタビュー取材を引き受けました。
それは、これまで私が関わったことのない分野だったため、
わからないことを一つ一つうかがいながらの取材でした。
でも終始、なごやかな雰囲気で行うことができました。
そしてすぐに原稿化し、編集のチェックを経て先方校正へ。
さらに数日の後、校正が返ってきました。
ライターといえども、初校段階では誤字・脱字が何カ所かあるもので、
もちろんそうした箇所に朱が入っていましたが、
あわせて気になるひとことが。
そこには
「なぜここが体言止めなのですか?」と書いてあります。
文章中に体言止めを使って文のリズムを整えるのはごく一般的であり、
まして連続して使っている訳でも、文調を壊すような使い方でもありません。
また、これは関係ないのですが、
とてもなごやかな雰囲気の取材だったため、
なんとなく先方が怒っている光景をイメージすると、
すごくショックを受けてしまったというか、思わず閉口してしまいました。
この一件で、私は今更ながら気づきました。
それは、「納得できる正しい日本語」なんてないということ。
すべての人が納得し、かつ使い方も100%正しい日本語は
ほとんど存在しないのだと思います。
たとえば今回の件にしても、かつては「体言止めを極力使わない」のが
日本語として正しいとされていたそうです。
それを信じてやまない人にとっては、私の使い方が誤りとなります。
一方で、私はこの10年ずっと文章を書いてきたわけで、
指摘した研究者よりも、文章を書く力はあると思っていますから
これで完璧だといえる文章を納品しています。
この例をみても、ライターと校正する側の間に
「納得できる正しい日本語」は成立していません。
世に送り出される文章は、掲載媒体や書き手の雰囲気など
いろいろな条件が加味・反映されています。
明らかに「ん?」と疑問に思うような日本語を使うのは
やっぱり私も嫌悪感をもちますが、
誌面に沿ったもの、ある程度読み手が納得できる文章であれば
言葉の使いかたは自由だと思うのです。
自分に置き換えれば、
どう言われようと決して自分の文章を卑下したり、自信を喪失したりはしません。
他の方から指摘された間違い、また自分が使わない表現などに気づけば
「これは勉強だ」と受け止めます。
しかし、言われるたびに自分のテイストを変えたり、
悩んで歩みを止めることはしません。文章は最期まで磨きつづけるものなのです。
ブレない、自分らしい文章を書きつづけること。
確固たる文章を自分のものにしていくことが、
40代を迎えるころに「強い力」となるような気がしています。